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ウルトラQ的映画

空想特撮シリーズ「ウルトラQ」についての個人的考察

1966年(昭和41年)1月2日から7月3日まで
TBS系で毎週日曜日19時から30分白黒番組として27話(再放送時28話)を放送

1963年(昭和38年)4月1日に発足した
株式会社円谷特技プロダクション制作のウルトラシリーズ第一作

監修-円谷英二
出演-佐原健二・桜井浩子・西條康彦・江川宇礼雄・田島義文ほか
ナレーター-石坂浩二

「ウルトラQ」製作の経緯 (Wikipediaより)


「ウルトラQ」放送開始の約二年前、1964年の春、円谷特技プロダクションによる特撮テレビ映画の初企画は、フジテレビとの提携で進められていた。社長の円谷英二は、地球人に協力する不定形宇宙生物の活躍を描く『WOO』を制作するにあたり、当時世界に二台しかない米・オックスベリー社製の高性能光学撮影機「オプチカルプリンター1400シリーズ」を独断で発注してしまった。しかしフジテレビとの調印の当日、『WOO』の制作は中止となってしまう。円谷特技プロは代理店を通じてオックスベリー社にキャンセルを申し入れたが、すでに船便で日本へ向かっている最中であり、当時の価格で4000万円の機械を、円谷特技プロが自社で購入することは不可能であった。幸い、当時TBS映画部に在籍していた円谷一の口添えでTBSが購入を肩代わりすることになり、1964年8月、この高価な機械を生かすために、まだ検討段階にあったSF特撮シリーズ『UNBALANCE』の制作を決定。TBS側としては「世界のツブラヤ」の知名度を生かしての海外販売が前提であった。この時点での契約は1クール13本となっており、TBSは円谷特技プロの見積り通り7千万円の制作費を支給した。

当時テレビ映画は通常16mmフィルムを使用しており、テレビ局側には35mmテレシネ用プロジェクターを導入する意味はなかったが、円谷英二の「16mmのクォリティでは特撮は出来ない」との主張により劇場映画用と同じ35mmフィルムで撮影するという手法が採られた。この破格の撮影環境に、TBS映画部より出向した中川晴之助監督が「カネゴンの繭」でうっかり16mm撮影の調子でキャメラを回し続けて、他の監督から「フィルム喰いのハルゴン」とあだ名を付けられた、というエピソードも残っている。次作「ウルトラマン」からは、特撮を35mm、本編を16mmで撮影する体制が採られている。

『UNBALANCE』には東宝のスタッフ・キャストが数多く集められ、放送スケジュール未定のまま1964年9月下旬から撮影が始まった。本邦初のSF怪奇アンソロジーとして5本のエピソードがほぼ完成していた(うち2本はラッシュフィルムの状態)『UNBALANCE』だったが、対象視聴者層をより明確にしたいというTBS側のプロデューサーの意向により、怪獣路線へと変更を迫られることとなり、番組のタイトルも11月に『ウルトラQ』へ改められた。このタイトルは、当時の流行語「ウルトラC」を元に、TBSの編成部が考案したもので、視聴者に「これは一体何だ?」と思わせる高難易度のクエスチョン、そして高度のテクニックを駆使した特撮テレビ映画という二重の意味が込められていた。

TBSでは社内での調査取材の結果、「日曜夜7時からの放送が最適」と考えていた。この時点で65年4月のスタートを予定していたものの、さらに第2クール13本の追加制作が決まったために今しばらくの準備期間が与えられることになった。TBS側は多額の制作費を回収するため、スポンサーに高額な提供料を強いるのは無理だということを十分認識し、「じっくり時間をかけ、全シリーズを制作してから、腰を据えて放送にかけるのが諸般の事情から最高の策であろう」という姿勢で臨み、制作現場には放送開始の遅れに対する焦りは見られなかったという。

放送開始日時が正式に決定したのは、65年9月末のことである。これを受けてTBS内で「ウルトラ連絡協議会」が発足し、TBSとその系列局・円谷特技プロ・武田薬品・広告代理店の宣弘社が一体となって10月から大々的な宣伝作戦を展開していった。
こうして1966年1月2日夜7時、本作の放送が開始された。




<参考>Wikipedia

1「ゴメスを倒せ! 2「五郎とゴロー 3「宇宙からの贈り物 4「マンモスフラワー 5「ペギラが来た! 6「育てよ!カメ」 7「SOS富士山」
8「甘い蜜の恐怖」 9「クモ男爵」 10「地底超特急西へ」 11「バルンガ」 12「鳥を見た」 13「ガラダマ」 14「東京氷河期」
15「カネゴンの繭」 16「ガラモンの逆襲」 17「1/8計画」 18「虹の卵」 19「2020年の挑戦」 20「海底原人ラゴン」 21「宇宙指令M774」
22「変身」 23「南海の怒り」 24「ゴーガの像」 25「悪魔ツ子」 26「燃えろ栄光」 27「206便消滅す」 28「あけてくれ!」

放送
No
制作
No
ゴメスを倒せ! 1966年
1月2日
放送
視聴率
32.2%
脚本 千束北男 監督 円谷一
撮影 内海正治 特技
監督
小泉一
1 12 特殊
撮影
高野宏一 単発
出演
富田仲次郎

記念すべき「ウルトラQ」第一話。私は当時9才。放送時間にはテレビの前でかじりついて見た覚えがある。
それまで映画館でしか見る事の出来なかった怪獣物がテレビの前で毎週見ることが出来る。当時の少年達は期待に胸を膨らませてワクワクして見たはずだ。

「ゴメスを倒せ!」の撮影はシリーズの中では12本目だが、やはり第一作は「怪獣」が主役の回がいいだろうとセレクトされたのだろう。ゴメスは多分ゴジラの古いヌイグルミを加工して頭部だけを新たに作ったのだと思う。身長設定が2.30mだろうか、工事現場の精巧なミニチュアセットが作り込まれている。東宝の怪獣モノと言えば、怪獣を退散させる役割はほとんどが自衛隊だが、この「ウルトラQ」は自衛隊はほとんど出てこない。この回はリトラと共に自滅していく訳だが、石坂浩二ナレーションの「・・・東京弾丸トンネルの入口に今もリトラの銅像が建っている」と締めくくるラストが印象的だ。一種の寓話となっている。30分番組という制約を逆手に取った構成が素晴らしいと思う。

監督の円谷一(1931-1973年)は当時TBSのディレクターで円谷英二の長男。1962年に「東芝日曜劇場」で放送された『煙の王様』(脚本:生田直親)は、芸術祭文部大臣賞を受賞するなど高い評価を得た。特に子供の描写が得意とされた。1963年、TBSがテレビ映画の自社製作を行なうために映画部を設立すると、飯島敏宏、中川晴之助らとともに映画部に移籍して、TBS初の特撮テレビ映画『ウルトラQ』の制作にあたった。『ウルトラQ』、『ウルトラマン』、『ウルトラセブン』といった特撮番組の監督を務め、奇抜な演出方法が周囲に理解されずTBSで干されていた実相寺昭雄を拾うなど、シリーズの隆盛に力を尽くした。
1970年、父・英二の病死によりTBSを退社し、39歳の時に円谷プロダクションの社長に就任。財政難から、危機的な経営状況にあった同社の経営建て直しに奔走する。社長と監督は兼任できないと宣言して、以降はプロデューサーとして作品に携わるようになる。同年『ウルトラファイト』の制作を開始。この番組の人気により、本格的な特撮番組を求める声が高まると、1971年に『帰ってきたウルトラマン』、『ミラーマン』(フジテレビ)をプロデューサーとして制作し、第二次怪獣ブームの火付け役となる。以降、『ウルトラマンA』等の番組の制作にも携わるが、社長就任以降、営業周りに奔走した結果、持病だった糖尿病および高血圧が悪化し、1973年2月9日、起床直後に脳溢血を発症して突然倒れ、病院に搬送されたが間もなく死去。享年41。父親の死からわずか3年後の事である。

特技監督の小泉一は元々は東宝の本編カメラマン。本多猪四郎監督の特撮映画等の撮影を担当。
「ウルトラQ」では第1話「ゴメスを倒せ!」第6話「育てよ! カメ」第9話「クモ男爵」の特技監督を務めている。


放送
No
制作
No
五郎とゴロー 1966年
1月9日
放送
視聴率
33.4%
脚本 金城哲夫 監督 円谷一
撮影 内海正治 特技
監督
有川貞昌
2 7 特殊
撮影
高野宏一 単発
出演
土屋嘉男

「五郎とゴロー」は、巨大化した猿と唖の青年の物語。

社会的弱者の主人公と怪獣が心通ずるというモチーフはこの作品が最初かもしれない。青年の絶叫で終わらせるラストは、今現在のテレビ番組ではスポンサーが了承しないだろう。なおゴローのヌイグルミは1962年公開の「キングコング対ゴジラ」で使用した物を再利用したようだ。

この回の脚本を書いたのは沖縄出身の金城哲夫。
1963年に円谷プロダクションへ入社、黎明期の円谷プロが製作した特撮テレビ映画の企画立案と脚本を手掛ける。大人向けの特撮を目指した1968年製作の『マイティジャック』、その後の『怪奇大作戦』は視聴率が低迷。番組の受注が途絶えた円谷プロは、経営状態が悪化に伴い大幅なリストラを敢行、その煽りで文芸部も廃され、金城は1969年に円谷プロダクションを退社。
故郷の沖縄県に帰郷しラジオパーソナリティーや沖縄芝居の脚本・演出、沖縄海洋博の構成・演出などで活躍したが、1976年2月23日、泥酔した状態で自宅で足を滑らせ転落。3日後の2月26日に脳挫傷のため死去。37歳で没っしている。

特技監督の有川貞昌(1925-2005年)はこの作品が「特技監督」デビュー作。1953年『太平洋の鷲』(本多猪四郎監督)で円谷組特撮キャメラマンを務めて以来、東宝の特撮パートの撮影を多数担当。
この回の翌年の1967年、『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』(福田純監督)で、正式に東宝の2代目特技監督の称号を得ている。円谷英二の愛弟子である。
1971年、円谷の死後、東宝特技課の解散に伴い、東宝を退社。このことについて、「オヤジ(円谷の敬称)がいなくなっちゃったんじゃ、もう東宝にいる意味が無くなった」との趣旨のコメントを残している。
この年、東宝の系列会社である国際放映に移籍。1972年、東宝に請われてTVドラマ『愛の戦士レインボーマン』(NET系)の特撮を担当。1977年には元東宝の造形スタッフ村瀬継蔵に招かれ、香港のショウ・ブラザーズ製作の『北京原人の逆襲』(ホー・メン・ファ監督)で特技監督を務める。1979年『西遊記II』(日本テレビ)では、プロデューサーも務めている。

放送
No
制作
No
宇宙からの贈り物 1966年
1月16日
放送
視聴率
34.2%
脚本 金城哲夫 監督 円谷一
撮影 内海正治 特技
監督
川上景司
3 5 特殊
撮影
高野宏一 単発
出演
田崎潤

前話に続いての金城哲夫の脚本作品。ラストの終わり方が非常に印象的な回となっている。

火星に向けて発射されたロケットが通信不能となり再び地球に舞い戻ってきた所から物語は始まる。黒尽くめの強盗ギャングが出てきて「いかにも」の進行。ギャング二人組が何故洞窟に迷い込んでいるのか説明不足なのだが、現れた火星人が送り込んで来たとされるナメゴンはナメクジとカタツムリを合体したような怪獣でヌメヌメ感が気色悪い。

一匹目は自滅して行くのだがもう一匹がラストに登場。そこにナレーションがかぶって一気に寓話的になる。当時の30分子供番組にはこんな風な、再び混乱に陥ってお手上げ、のようなラストで終わる回が多数あったような気がする。

この回の特技監督である川上景司はこの他「マンモスフラワー」「ペギラ正・続」「バルンガ」「鳥を見た」他11本を担当している。以下Wikiでの経歴を少々長いが転載する。

『川上景司は昭和14年、東宝砧撮影所に見習いとして入社、円谷英二を課長とする特殊技術課に配属される、同期に後に「快傑ライオン丸」「スペクトルマン」等を制作したピー・プロダクション創業者の鷺巣富雄がいる。
昭和16年、特殊技術課内の合成作画係に異動。同僚に向山宏がいる。この年日本は第二次世界大戦に参戦、軍部の意向によって東宝は「戦意高揚映画」を量産することとなった。必然的に空・海戦のミニチュア特撮の需要が高まり、円谷以下特殊技術課は『ハワイ・マレー沖海戦』など大車輪で稼働することとなる。
東宝の特撮を駆使した戦意高揚映画の好調ぶりを見た松竹映画松竹蒲田撮影所所長の城戸四郎は、自社の特撮部門の強化を画策。高給を条件に東宝特技課スタッフの引き抜きを図るり、川上は昭和18年に松竹へ移籍、昭和24年には、特撮課に矢島信男が入社、川上の門下生となる。
昭和31年、日仏合作の大作映画である『忘れえぬ慕情』で、台風襲撃の特撮シーンを担当、大評判となった。川上はこの作品で「日本映画技術賞」の「特殊技術賞」を受賞。 この「特殊技術賞」は、円谷英二も特撮映画『空の大怪獣ラドン』で受賞しており、東宝・松竹両者初の総天然色特撮映画が特撮シーンで同時受賞するという快挙となっている。
昭和38年、円谷英二が株式会社円谷特技プロダクションを創立。円谷に招かれ、「一番弟子」である川上は松竹を退社し、同プロ創設と同時に入社。日活・石原プロのヨット映画『太平洋ひとりぼっち』の特撮部分を「特殊技術」名義で特撮を担当している。
同年、東宝で特撮映画『海底軍艦』(本多猪四郎監督)が企画されるが、急遽正月興行が決まり、特撮部分の撮影期間が一カ月に満たない非常事態となった。困り切った円谷英二監督は、3班体制を採ることにし、川上を東宝に呼んでB班監督を任せた。突貫体制のなか『海底軍艦』は無事完成し、試写の席で円谷は涙ぐんでいたという。
そして昭和39年、『ウルトラQ』で川上は特技監督として計11本に参加したが、昭和40東宝傘下の円谷特技プロの現状に不満を覚え、「自由な映画作りがしたい」として同プロを退社する。
昭和41、東宝特技課を退社した渡辺明、小田切幸雄らとともに「日本特撮プロダクション」(のち「日本特撮映画株式会社」に改名)を設立。完全独立プロダクションとして松竹の『宇宙大怪獣ギララ』の特撮監修を担当。日活の『大巨獣ガッパ』は渡辺明が担当した。昭和43年松竹の『吸血髑髏船』、『昆虫大戦争』の特撮二本立て両作品の特撮を担当。会社としては東映の『ガンマー第3号 宇宙大作戦』は渡辺が担当した。
昭和44年、怪獣ブームが下火になったのに伴い、 日本特撮映画株式会社を解散。 以降、テレビCMなどで特撮演出に腕を振るい、昭和48年、癌により永眠。享年61』

日本特撮の創生期から怪獣ブームの絶頂期に至るまで、特撮に関わった人生は本人も幸せだったに違いない。

放送
No
制作
No
マンモスフラワー 1966年
1月23日
放送
視聴率
35.8%
脚本 金城哲夫
梶田興治
監督 梶田興治
撮影 内海正治 特技
監督
川上景司
4 1 特殊
撮影
高野宏一 単発
出演
堺幸雄

この回の「マンモスフラワー」、放送は4本目だが制作は第一作目。
ビルを突き破って成長していく巨大植物が蕾から開花するシーンは印象的だ。飛行機から炭酸ガスを強力に固定する特殊薬品を落とすのだが、俯瞰のそのシーンは航空写真を引き伸ばした写真が使われている。放送当時の小さなモノクロブラウン管テレビではそうと気付かなかっただろう。

この回の特技監督は、当初は中野昭慶が担当するはずだったと言われている。しかし中野は東宝の本編(「三大怪獣 地球最大の決戦」。中野は、チーフ助監督を務めている。)が忙しく、スケジュールがとれなかったために担当出来なかったとか。

監督の梶田興治は1923年生まれの東京都出身。1945年、22歳の時に東宝撮影所に入社している。中野昭慶とは東宝時代からの付き合いだったのだろう。東宝では本多猪四郎監督のチーフ助監督を長く務め、1966年に円谷特技プロダクションへ出向してウルトラシリーズの監督を担当、その後東宝に戻りテレビ部のプロデューサーとして活躍した。第二次大戦中は陸軍飛行部隊所属で、『ウルトラQ』第27話「206便消滅す」では、劇中にゼロ戦のミニチュアを登場させている。2013年8月18日、病のために死去。89歳没。

巨大フラワーに破壊されるビルに入居している会社、東京広告の支配人役は堺左千夫。東宝の特撮映画でもお馴染みの脇役。1925年、都内の電気商の息子として生まれる。第1期東宝ニューフェイスの試験に合格し、東宝に入社。三船敏郎、伊豆肇と同期。1947年の黒澤明監督『素晴らしき日曜日』でデビュー。以降、黒澤、岡本喜八、稲垣浩ら、東宝の名監督の作品に常連として多数出演。若大将シリーズの敵役「赤まむし」役などの名脇役俳優として知られる。1998年、73歳で没。

放送
No
制作
No
ペギラが来た 1966年
1月30日
放送
視聴率
34.8%
脚本 山田正弘
監督 野長瀬三摩地
撮影 内海正治 特技
監督
川上景司
5 14 特殊
撮影
高野宏一 単発
出演
田村奈己

「ウルトラQ」シリーズに登場した怪獣の中でも人気が高いペギラの初登場作。この後ペギラが東京に現れた「東京氷河期」もある。この両作品はほぼ同時期に制作されている。この回は舞台が全て南極なのでオールセット、レギュラー出演も佐原健二のみとなっている。ペギラの登場が、黒い煙幕を発した隕石の移動によって表現されている。この事象に関しては物語の中では何ら説明がないのだが何か納得できてしまう。そうでないと南極から東京へは移動できないから苦肉の策では有るのだろうが・・・・。

監督の野長瀬 三摩地(のながせ さまじ)は1923年生まれの京都市出身。日本大学芸術学部を卒業し、東宝に入社。渡辺邦男、青柳信雄、本多猪四郎らの助監督を務め、主に杉江敏男監督作品に従事。黒澤明監督の『蜘蛛巣城』『どん底』(1957年)、『隠し砦の三悪人』(1958年)ではチーフ助監督を務めた。
映画界が斜陽の中では監督昇進の機会が回って来ず、1964年、逸早く映画界に見切りをつけ、東宝テレビ部に移り、テレビ監督に転身。メロドラマ『銀座立志伝』で監督デビュー。円谷プロダクションの『ウルトラQ』で監督を務めて以降、特撮番組に携わり、『ウルトラマン』『ウルトラセブン』などの初期のウルトラシリーズでは多数のエピソードを監督、脚本も執筆している。1982年に東宝を退社。その後はフリーの監督として記録映画などを撮ったほか、母校である日本大学芸術学部の講師も務めた。1996年72歳で没。

脚本の山田正弘は1931年生まれの東京都出身。文化学院文学部卒業。詩誌の創刊に参加。その後、月刊詩誌「現代詩」や「詩学」などで、堀川正美、水橋晋、三木卓らと社会派として活躍。1959年 石原慎太郎の企画・監修によるドラマシリーズ「慎太郎ミステリー 暗闇の声」で脚本家デビュー(大山勝美:監督作品)。その後TBSの大山勝美演出ドラマの脚本を担当。「ウルトラQ」「ウルトラマン」「中学生日記」など多数の作品を手がける。快獣ブースカは山田が書いた「カネゴンの繭」を下敷きに企画製作された。また、ブースカ語である「バラサ バラサ」、「シオシオのパー」は山田が考案した造語である。1967年には「炎と女」で映画脚本デビュー。吉田喜重監督とのコンビで、アナキスト大杉栄を描きシドニー国際映画祭南十字星賞を受賞した映画「エロス+虐殺」や「煉獄エロイカ」「告白的女優論」などの脚本を執筆した。2005年、肺がんのため死去。74歳没。

女性隊員、久原羊子役の田村奈巳は1942年生まれで東京都渋谷区千駄ヶ谷出身。本名は平野まゆみ。中学生の頃から雑誌モデルやテレビドラマに出演。江波杏子とは近所の幼馴染。1959年、東宝に入社し、同年、本名のまま映画『ある日わたしは』でデビュー。1960年、田村を含めた、同い年の16歳だった浜美枝、星由里子の三人娘がペットのように可愛いため、夏木陽介が「東宝のスリーペットだね」と言ったことから正式に「東宝スリーペット」として売り出され、盛大な披露パーティーも催された。3人をメインにした『サラリーガール読本 お転婆社員』も同年に公開された。1961年に芸名を田村奈巳に改め、『野盗風の中を走る』など着実に出演作を重ねる。1966年にフリーとなり、その後も映画、テレビドラマに多数出演し、1973年に結婚を機に一旦引退するも、1985年に女優に復帰。恩顧の岡本喜八監督に請われての『大誘拐』(1991年)では、中年期に入っても往時と変わらない可憐さを見せている。本作のヒロイン・江戸川由利子役の候補に名前が挙がった事もあったという。また、次作『ウルトラマン』の女性隊員役の候補にも挙がっていた。

放送
No
制作
No
育てよ!カメ
1966年
2月6日
放送
視聴率
31.2%
脚本 山田正弘
監督 中川晴之助
撮影 内海正治 特技
監督
小泉一
6 11 特殊
撮影
高野宏一 単発
出演
大泉滉

「ウルトラQ」シリーズの中で子供を主役にした寓話的な回がある。監督は中川晴之助。本作以外に「鳥を見た」「カネゴンの繭」を担当している。

印象的な音楽とともに映像主体のカッティングも含めて、軽妙なタッチで物語は進む。細かい所には拘らずに自由奔放に映像表現した本作は「ウルトラQ」がだだの特撮物の範疇に収まらない映像作品なのだと確信される。

監督の中川晴之助は1931年生まれ、TBS演出部、映画部に所属していたテレビディレクター。人間のエゴや偏見を無邪気でひたむきな子供の目線で描いた。「ウルトラQ」は全編が映画用の35mmフィルムで撮影されたが、「カネゴンの繭」ではTV用16mmフィルムのつもりでキャメラを回し続け、他の監督から「フィルム喰いのハルゴン」と渾名を付けられた。この『ウルトラQ』に前後して、渥美清主演のテレビドラマ『泣いてたまるか』第1話を監督している。娘は女優の中川安奈。

放送
No
制作
No
SOS富士山
1966年
2月13日
放送
視聴率
32.5%
脚本 金城哲夫
千束北男
監督 飯島敏宏
撮影 長谷川清 特技
監督
的場徹
7 27 特殊
撮影
高野宏一 単発
出演
晴乃チック
晴乃タック

富士山が噴火するというモチーフは、製作から40年経った今現在では非常にタイムリーでは有る。しかし今回の話は、行方不明で野生児になった弟タケルとそれを探す姉、の物語はあまり面白くない。演出も緩慢で散文的で正直つまらない。タケルは野生児なのに栄養満点ふくよかで髪の毛もふさふさ(多分かつら)。岩石怪獣の心臓部をタケルが破壊して終わるわけだが撮影が雑でその関係性が映っていない。
「ウルトラQ」の中でもかなりつまらない一作。

放送
No
制作
No
甘い蜜の恐怖 1966年
2月20日
放送
視聴率
32.6%
脚本 金城哲夫
監督 梶田興治
撮影 内海正治 特技
監督
川上景司
8 10 特殊
撮影
高野宏一 単発
出演
清水元

「ウルトラQ」シリーズ

放送
No
制作
No
クモ男爵 1966年
2月27日
放送
視聴率
35.7%
脚本 金城哲夫
監督 円谷一
撮影 内海正治 特技
監督
小泉一
9 11 特殊
撮影
高野宏一 単発
出演
若林映子

「ウルトラQ」シリーズ

放送
No
制作
No
地底超特急西へ 1966年
3月6日
放送
視聴率
32.6%
脚本 山浦弘靖
千束北男
監督 飯島敏宏
撮影 長谷川清 特技
監督
的場徹
10 28 特殊
撮影
高野宏一 単発
出演
石川進

「ウルトラQ」シリーズ




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